<漱石>と私と

 小学校(当時は国民学校)の5年になったころ、東京の空襲も時々繰り返されるようになり、國は<縁故疎開>を勧めていた。多分明仁天皇も皇太子の時分に、那須か奥日光に疎開したのもこの頃だったろう。

 私は母の教え子が持っていた千葉の別荘に1時預かられた。

そこでは、親代わりに多分高等女学校の下級生くらいの姉と、私より年下の弟が一緒だった。

 何かの折に、その姉から今何を読んでるのと聞かれ、その頃拾い読みしていた<吾輩は猫である>をあげた。すると彼女は<猫>は未だ早いわね、<坊ちゃん>あたりを読むとと好いわよ、と教えて呉れた。

 確かに<猫>の文明批評的なものが解っている訳は全く無く、単純に主人公の苦沙弥先生や迷亭、寒月といった登場人物の駄洒落会話を面白がっていたに過ぎないので、何となく納得させられた。

 後々いろいろの本は、読者として読む最適の時期ともいうべきものがあると覚った。

 

 そしてその後、漱石とはあまり馴染み無く過ごしていた。戦後青少年期を迎えた私には、怒濤のように押し寄せてきた無数の読みたい本に溺れんばかりで、漱石全集の広告など瞥見する程度だった。

 そして半世紀ほどたつたころ、私は近くの公民館で<漱石と俳句>という講演会を企画した。そもそもはその頃、連句に凝っていた私が、漱石と虚子も連句をやつて居たという文章を見掛け、漱石の俳句も思い出しのであった。一般的に連句は馴染みないかも知れないが、俳句となればかなりの人々が関心を持つだろう、ここで集まった人々に連句の集まりに誘えるチャンスでもあると思い込んだ。

 その講演会の講師に人を介して市内に住む、漱石研究者として著名な大学教授へ依頼した。

その教授から電話で講演内容の打ち合わせがあった。私は迂闊にも講演の内容についてはボンヤリとしたイメージしか持たなかったが、教授からは漱石のどの時期のどの句をどう取り上げたら良いか、と尋ねられた。当然私はしどろもどろの返事しかできず、教授は頼りないむしろ惘れた思いだったかも知れない。

 ともあれ、講演会当日は約200人の聴衆で会場は満杯。20人ほども座れない人が出るほどの盛況だった。

わたしは聴衆が少なくて講師の気分をこわしてはならないと思うことに一杯で、ひそかに考えていた連句のよびかけのチラシすら刷り忘れていたくらいだつた。

 

 かくして<漱石>と私とは、こどもの時からちぐはぐに遭遇してまた離れていたことになる。