沖縄戦の敗戦から71年

 一般住民を強制的に巻き込み、19万人弱の戦死者を出した沖縄日本軍の敗北は、1945年6月23日に司令部の潰滅の時とされてもいる。

 その当時、沖縄県の知事は沖縄人ではなかった。死を覚悟で大阪から赴任したのは神戸出身の嶋田叡(あきら)。県の行政のトップが逃げ出すような混乱した中、警察部長の荒井退造と共に一人でも多くの住民を救うため、食糧確保、疎開などに最後の最後まで尽力した。このおかげで20万の命が救われたとも伝えられる。沖縄戦末期、摩文仁の丘で消息を絶ち遺骨は発見されなかった。この2人は県職員と共に慰霊塔「島守の塔」に祭られている。

 また大田実海軍少将は自決前、沖縄の払った犠牲と今後の配慮をひたすら訴える、異例の電文を大本営に送っており沖縄人から感謝されている。

 

 最終的には、9月7日に南西諸島の軍を代表して第28師団司令官納見敏郎中将と高田利貞少将、加藤唯雄海軍少将の3名が日本軍の沖縄戦降伏文書に調印し、ジョセフ・スティルウェル米国陸軍大将が日本軍の降伏を受諾し署名することで、沖縄戦が公式に終結した。

 この悲惨な沖縄戦(学童疎開対馬丸撃沈も含め)についてNHKの<戦争証言アーカイブス・特集沖縄と太平洋戦争>がネットでも読むことが出来る。

 

 そして沖縄は米軍の占領下に置かれ、全てが日本に返還されたのは1972年5月だった。しかもそれからなお米軍基地の負担は沖縄に重くのし掛かっている。現在も日本政府は、日本の国土である沖縄県を守らず、専らアメリカ軍の鼻息を伺う卑屈な態度に終始して現在に至っている。