『恐竜はホタルを見たか』大場 裕一 (岩波科学ライブラリー16/5)を読む

サブタイトルは<発光生物が照らす進化の謎 >。
 発光生物は何故発生したのか、それはどう進化したのか、何故陸上に少なく、海洋中深層に多いのか。これらについて未だ解明されないことが多い。著者は不明なことは不明としつつ、ひたすら発光生物を探求する。
 不思議だなぁと感じることが科学の一歩だと思う。われらの地球は何と蠱惑的な謎を無数に孕んでいるのだろう。研究者の真実を追究する姿勢は素敵。(16/8)

岩波書店より
昆 虫,キノコ,魚など,地球上には数万種もの「光る生きもの」がいる.生物はいつ,どうやって光る能力を手に入れたのか.光を使った驚きの生存戦略とは.発 光のしくみを解明し,進化の道筋を巻き戻していくと,舞台は暗闇に満ちた太古の深海へ.生物が放つ光に魅せられた著者が,ダーウィンも悩んだ「進化の謎」 に挑む.[2色刷]
〈大場裕一〉1970年北海道生まれ。総合研究大学院大学博士課程修了。博士(理学)。名古屋大学大学院生命農学研究科助教を経て、中部大学応用生物学部准教授。著書に「ホタルの光は、なぞだらけ」など。
▶西島建男の読書日記
発光生物といえばホタルだろう。この表題を約1億年前の白亜紀に恐竜と原初哺乳類がホタルの光をみていたと、発光生物学の大場氏はいう。ホタルは原初哺乳類の好物だが、苦味の不味物質と毒物質をもち、光ることで警告して生き延びてきた。

大 場氏によると、ムカデやカタツムリなど多数の発光動物が地球に存在し、特に水深200m以上の深海に多い。隠れる場所のない浮遊生物は海面からの太陽光 で、自分の影が映し出され。捕食者に狙われやすい。腹側を青色に光らせ、シルエットを隠す「カウンターイルミネーション」で生き残る。

ノー ベル賞受賞の下村脩博士はクラデの発光に、「発光タンパク質」を見っけた。意外に発光の仕組みはわからない部分が多い。大場氏の独創は、「自力発光」と 「共生発光」があるといい、他生物から発光原料のルシフェリンをもらい、発光する「半自力発光」を重視していることだ。

オキアミが発光性の渦鞭毛藻をもらい、ウミボタル類からモライ、コペポーダから食べられて「セレンテラジン」を貰う。発光バクテリアは様々な魚と共生関係を結び、発光能力を与えたと大場氏はいう。

発 光バクテリと発光コペバークの進化が、発光二大発明だという。進化史上の要因がある。何故光るのか。ホタルのように雄雌の求婚や、敵の威嚇、餌を引き付け るなどさまざまであろう。暗闇の地球に誰が始めて光をつけたかを、進化論や遺伝子分析で解明していく面白い本である。

『決着! 恐竜絶滅論争』後藤和久(岩波科学ライブラリー)を読む

恐竜はなぜ絶滅したのか?
6,550万年前の白亜紀末,恐竜を含む生物の大量絶滅は大きなナゾであったが、2,010年3月<小惑星衝突>がその事態の引き金だった,という論文が科学雑誌サイエンスに掲載された。この本の著者もその論文の共同執筆者だった。

  この1,980年代から世界的に議論され出した<小惑星衝突>説は,メキシコ・ユカタン半島の地下約1キロメートルに埋没している直径180 キロメートルの円形構造巨大クレーターの跡が1,991年に確認されることで、地球上の火山の大噴火説は圧倒的に根拠を失って行った。

  だが素人目には,地球外物体が地球に衝突してこういう大事変が起こるというよりは、地球上の火山大噴火などに原因を求めたくなるものだ。しかし事実は違っ て<小惑星衝突>だという調査研究は、特にメディアなどの反論を誘導する報道を斥けて着々と進んで来たらしい。
 現在この<小 惑星衝突>についてさしあたり二点の解明が急がれているという。ひとつはこの巨大クレーター(チチュルブ・クレーター)が発見されてからすでに20 年が経つが,サイズや衝突規模などなど未だ解明されてないことが多く,試料採取のため1キロメートルほどの掘削が必要で、そのための科学的掘削コアの配置 や絶対量の不足をカバーすることが急務。チチュルブ・クレーターの研究から,衝突と環境変動の規模,どれだけの環境負荷があれば生物は絶滅しうるのかとい う、生物学的研究の同時進行。

 この地球上の自然科学的な問題ですら、解決には時間がかかり更に今後の課題も積まれている。これに比べると地球上の社会科学的課題の解決には更なる膨大な時間が必要なことだろう。

『動物と人間の世界認識』日高敏隆(ちくま学芸文庫07/9)を読む

 サブタイトルが「イリュージョンなしには世界は見えない」。

 動物の世界認識は,ほぼ遺伝的に決定されている。著者はネコやモンシロチョウ,ハリネズミやカブトムシ,ダニなどの生態観察から,彼らにはかれらの認知する独自の世界があると言う。
 彼らの感覚で知り得る環境は,かれらの生活にとって必要なものから構成されている。そして必要ないものは,彼らにとっては無いものと同じだ。
動物はそれぞれの種によって、環境をイリュージョンしている。あるいはイリュージョンなしには動物は世界(環境)が見えないと、著者は語る。

この説は大変面白いが、素朴な読者にとってはかえって煩瑣なものを感じさせられた。この話はもっと簡単にしても良いのではないか。
 例えば,地球上のこの世界はほぼこれこれという状態になっている。その地球上の動物は,かれらとかれらの子孫のそれぞれが、生存に必要にして十分な環境条件のなかで、それを保ちつつ種の生存を図っている。そのあり方は種に依ってそれぞれ異なる。
 例えばネコやモンシロチョウなどなどの場合にはこれこれしかじかだ、という具体例が示されるーという方が解り易い。

 この、種に依って世界への対応が違うのは、イリュージョンが違うからだということまでは解るが,そのイリュージョンなしには世界が存在しないかに語られると,少し戸惑う。

 何れにしても,人間の存在の仕方にまで想いが及ぶ、単なる生物のお話ではないという、興味津々の物語。(10/6)

長崎原爆の日

 <長崎 鎮魂の“万灯流し”、平和祈るなか米原佐世保入り>とエキサイトニュースにタイトルがあった。2016年8月9日 21時07分(TBS News)。

 以下記事は次の通り。

 <原爆投下から71年となった長崎市では9日の夜、原爆犠牲者を慰霊する「万灯流し」が行われました。
 「万灯流し」は毎年、長崎原爆の日の夜に行われています。

 平和を願うメッセージや絵が書き入れられた灯篭1200個が9日夜、爆心地近くの浦上川に流されました。川辺に集まった人たちは灯篭の明かりを見つめながら71年前、水を求め亡くなった、原爆犠牲者に思いをはせていました。

 一方、佐世保港にはアメリカ海軍の原子力潜水艦「キーウエスト」が入りました。入港の目的についてアメリカ海軍は「物資の補給」などとしています。

 アメリカ海軍は1964年以来、9日までに384回、佐世保原子力潜水艦を入港させていますが、長崎原爆の日の8月9日当日に入港させたのは今回が初めてです。>(10日04:31)

 あの原爆による亡くなった家族や友人,知人などへの思いは、改めて残された人々の胸にせまったことだったろう。わたしの兄嫁もあの日、両親と兄妹三人を一度に失った。兄嫁は(当時は師範学校生徒)市から約20キロ離れた学校に居たため被害を免れたのだった。

 

 こういう時に、アメリカ原潜がしゃあしゃあと寄港するということは、日本がアメリカから奴隷あつかいされているに等しい。しかも日本政府は、国民に対しては威張りくさっているが、アメリカ様にたいしてはそれを卑屈に受け入れている。   

 

<漱石>と私と

 小学校(当時は国民学校)の5年になったころ、東京の空襲も時々繰り返されるようになり、國は<縁故疎開>を勧めていた。多分明仁天皇も皇太子の時分に、那須か奥日光に疎開したのもこの頃だったろう。

 私は母の教え子が持っていた千葉の別荘に1時預かられた。

そこでは、親代わりに多分高等女学校の下級生くらいの姉と、私より年下の弟が一緒だった。

 何かの折に、その姉から今何を読んでるのと聞かれ、その頃拾い読みしていた<吾輩は猫である>をあげた。すると彼女は<猫>は未だ早いわね、<坊ちゃん>あたりを読むとと好いわよ、と教えて呉れた。

 確かに<猫>の文明批評的なものが解っている訳は全く無く、単純に主人公の苦沙弥先生や迷亭、寒月といった登場人物の駄洒落会話を面白がっていたに過ぎないので、何となく納得させられた。

 後々いろいろの本は、読者として読む最適の時期ともいうべきものがあると覚った。

 

 そしてその後、漱石とはあまり馴染み無く過ごしていた。戦後青少年期を迎えた私には、怒濤のように押し寄せてきた無数の読みたい本に溺れんばかりで、漱石全集の広告など瞥見する程度だった。

 そして半世紀ほどたつたころ、私は近くの公民館で<漱石と俳句>という講演会を企画した。そもそもはその頃、連句に凝っていた私が、漱石と虚子も連句をやつて居たという文章を見掛け、漱石の俳句も思い出しのであった。一般的に連句は馴染みないかも知れないが、俳句となればかなりの人々が関心を持つだろう、ここで集まった人々に連句の集まりに誘えるチャンスでもあると思い込んだ。

 その講演会の講師に人を介して市内に住む、漱石研究者として著名な大学教授へ依頼した。

その教授から電話で講演内容の打ち合わせがあった。私は迂闊にも講演の内容についてはボンヤリとしたイメージしか持たなかったが、教授からは漱石のどの時期のどの句をどう取り上げたら良いか、と尋ねられた。当然私はしどろもどろの返事しかできず、教授は頼りないむしろ惘れた思いだったかも知れない。

 ともあれ、講演会当日は約200人の聴衆で会場は満杯。20人ほども座れない人が出るほどの盛況だった。

わたしは聴衆が少なくて講師の気分をこわしてはならないと思うことに一杯で、ひそかに考えていた連句のよびかけのチラシすら刷り忘れていたくらいだつた。

 

 かくして<漱石>と私とは、こどもの時からちぐはぐに遭遇してまた離れていたことになる。

 

   

  

沖縄戦の敗戦から71年

 一般住民を強制的に巻き込み、19万人弱の戦死者を出した沖縄日本軍の敗北は、1945年6月23日に司令部の潰滅の時とされてもいる。

 その当時、沖縄県の知事は沖縄人ではなかった。死を覚悟で大阪から赴任したのは神戸出身の嶋田叡(あきら)。県の行政のトップが逃げ出すような混乱した中、警察部長の荒井退造と共に一人でも多くの住民を救うため、食糧確保、疎開などに最後の最後まで尽力した。このおかげで20万の命が救われたとも伝えられる。沖縄戦末期、摩文仁の丘で消息を絶ち遺骨は発見されなかった。この2人は県職員と共に慰霊塔「島守の塔」に祭られている。

 また大田実海軍少将は自決前、沖縄の払った犠牲と今後の配慮をひたすら訴える、異例の電文を大本営に送っており沖縄人から感謝されている。

 

 最終的には、9月7日に南西諸島の軍を代表して第28師団司令官納見敏郎中将と高田利貞少将、加藤唯雄海軍少将の3名が日本軍の沖縄戦降伏文書に調印し、ジョセフ・スティルウェル米国陸軍大将が日本軍の降伏を受諾し署名することで、沖縄戦が公式に終結した。

 この悲惨な沖縄戦(学童疎開対馬丸撃沈も含め)についてNHKの<戦争証言アーカイブス・特集沖縄と太平洋戦争>がネットでも読むことが出来る。

 

 そして沖縄は米軍の占領下に置かれ、全てが日本に返還されたのは1972年5月だった。しかもそれからなお米軍基地の負担は沖縄に重くのし掛かっている。現在も日本政府は、日本の国土である沖縄県を守らず、専らアメリカ軍の鼻息を伺う卑屈な態度に終始して現在に至っている。

 

 

 

華麗なる花火の影

編集

 テレビで花火師の苦心談が語られ、それらの花火が打ち上げられるのを見た。

 殆ど一瞬の時間ながら、夜空に華麗なストーリーを持ってなかなかの迫力。万里の長城やピラミッドを築き遺した事業も、歴史的に貴重な遺産だが、花火の持つ美しさと、その設計製作にも<歴史>が遺されていることだろう。

 もう大分昔のことだが、熱海の旅館で花火を体験した。近い距離だったので、想像していたよりも迫力のある音量の変化に驚いたことだった。

 

 こういう<遊び心>が、何時までも残る世界であって貰いたいと思う。